2010/06/13

クリスマスケーキ

女性はよくクリスマスケーキにたとえられる。

というのも、クリスマスケーキが12月24、25日を過ぎたら全く売れなくなるように、

女性も24,25才を過ぎたら男性からチヤホヤされなくなるから。

友人が「クリスマスケーキとかホントやめて欲しいんだけど―」と言うのも聞いたことがある。

しかし、女性はそこまで危機感を抱く必要があるのかなとも思う。

クリスマスの後、日本にはお正月がまっている。

お正月と言えば、しめ縄と鏡モチ。

きっと女性すべてがクリスマスケーキなのではない。

しめ縄や鏡モチに例えられてもよい人も多くいると思う。

しめ縄や鏡モチは、新しい年を彩るための無くてはならないものであり、

その年の最後のお買い物でもある。クリスマス以降、31日までには購入されるものだろう。

25才を過ぎてから、相手の「家庭を持つ」という新たな人生のスタートを彩る華麗な花嫁になり、

相手にとってその人は人生最後の恋人でもある女性は

しめ縄、鏡モチと呼ばれてもよいと思う。(※ただし正月の後には、旧正月があるので注意)

しかし、そう呼ばれないのは、しめ縄も鏡モチもそこまで綺麗でなくスタイリッシュでもないからなのだろう。

2010/06/05

「なう」考


今年の流行語の候補に少なくとも挙がるであろう「なう」。

これはとても便利な言葉である。

例えば「銀座なう。」、これだけで「私は今、銀座にいます。」を意味する。

6文字の節約。

「う なぎなう(回文)」、これは「今ウナギを食べています(これは回文です)」。

「『思い出トランプ』なう」、これは 「『思い出トランプ』を読んでいます」。

「うんこなう」、これは「うんこしています」。


覧のとおり、「なう」は、実に多くの動詞の代わりを務め、多くのことを意味できる。

しかし、僕らは「うんこなう」を「今うんこを食べています」とは解釈しない。

何が「なう」の中身の意味を決めているのか。

解釈する方は、発言者の状況や文脈を読んで、チャリティーを働かせて、極めて常識的に相手の「なう」を解釈する。

それは、同時に語られるもの、語られる文脈、それをつぶやく人から、解釈する側が最も適した意味に解釈しているということである。

これと同じことが、僕らが昔から使っている「の」にも見られる。

一倉宏さんも、ある講義で言っていたが、

「母の料理」、これはお母さんが作った料理として理解する。

「牛の料理」、この言葉を聞いた僕らは牛が作った料理という 意味で解釈することは稀である。

むしろ牛を材料とした料理を想像する。

「赤ちゃんの料理」 、この「の」が材料を意味するのだったら、どえらいことになる。ウミガメのスープどころではない。むしろこれは離乳食を指すと解釈された方がよい。この 場合は、誰に向けて作られたかとして解釈される。

「キツネの料理」、これはかなり微妙で、キツネの肉が使われている かもしれないし、
キツネうどんを想像するかもしれない。

字面が同じでも、何と語られるか、誰が語るか、どのような流れの中で語るかで、その意味が異なる言葉として「の」や「なう」は使われている。

そのため、語られる文脈の共有が相手とできていなければ、自分の伝えたいことが伝わってくれない場合が起こってしまう。

しかし、文脈に左右されてしまうこの意味の不確実さ、柔軟性を利用しすれば、面白い表現やつぶやきは大いに可能であると思う。

というか、言葉に固定された意味なんてあるのだろうか。。。
僕はディヴィドソンに共感する。

2010/05/31

今日の三つ

①「本は買う瞬間がもっともモチベーションが高い」

これはオカダトシオさんの言葉。
確かにそのとおりで、まだ読んでない本はどんどんたまっていく。
ただ所有するため、購入するために変われる本だってあるかもしれない。
何かを買うことでストレスを解消する人もいると言われる時代、
本だって、その対象になりうるだろう。
そして本と同じ現象が起きているのが、テレビ番組。
録画して見られていない番組がどれほどあるだろうか。
「いつでも見ることができる」という言葉に甘えてはいないか。
僕は、がっつり甘えてしまっている。
すんません。見ます。


②写真について

写真で「寒さ」を表現しようとする。
そのために写すものは、
「うれしそうに歩いているペンギン」
「ポケットに手を入れて、肩をすくめて歩く人」
「雪の降る風景」
など色々考えられる。
しかしこれらの写真は、寒さ以外のものも表現している。
それは観る人によって異なるけれど、
ペンギンの写真からは、うれしさみたいなものが感じられるだろうし、
その一方で、歩く人の写真にはさみしさがただよっている。
雪の降る風景には、懐かしさがあるだろう。
伝えたいメッセージ以外のものも写真は伝える。
 何かを伝える道具として写真を選ぶ時、
その写真から感じられること全体を見て、
選択する必要がある。
一枚の写真では起承転結を表現することは難しい。
だから「伝わること」と「伝わってしまうこと」に、映像よりも気を配る必要がある。

③『山登り』について

疲れながら登って元の場所に降りてくるという作業。
しかし、山登りに何の価値があるのか、と問う人はあまりいないだろう。
山登りで得をすること、それは景色、虫や花の観察、きれいな空気、
適度な運動、都会にない緑、そこでの弁当などなどの体験。
体験というだけあって、これらはネットや本から得られるものではない。
それらの体験がほぼ約束されているから、山登りはされるし、肯定される。
スノボも同じであろう(わざわざ降りるために登るという行為)。
リアルにあってネットにないもののひとつは、それかなと思った。
「百聞は一見に如かず」より「百聞は一体験に如かず」です。
今日、見るだけなら、ネットで十分。でも体験はまだ無理かなと感じる。
どれだけPCで山を見ても、
それは椅子に座って画面を見るという「ネット体験」の枠の中にある。
では、体験に価値を認める人がいなくなった場合は、どうだろう。
でも、これはまた、別の話。

2010/05/28

ウソだらけのホントのイベントのモウソウ

考えついた。

映画には予告編がある。

それは、その映画が数ヵ月後にやることを宣伝するため、

興味を持ってもらうため、観てもらうための

魅力的なシーンの断片から構成された2~3分間の映像である。

いわば、道具的な映像。

もし、その映像だけを集めた映画祭があったらどうだろう。

放映される映像は全て予告編。本編はなし。

それは、本編のための予告編ではなく、

予告編のための予告編としてある。 それだけで完結している。

あたかも、

全米を泣かせたような、

興行収入歴代1位のような、

アカデミー賞4部門受賞のような、

あの話題の恋愛小説の実写化のような、

ウソ予告編。

それはその映像の道具としての機能を無視したのではなく、

むしろ、その目的を最も果たしそうなウソの機能の発明。

機能しない機能の発明。

ただ飾られるために作られた茶碗のようなもの。
(ここでは「美」を機能と区別してます。「美」が機能かは、別の機会に考えられたらいいな。
そして「用の美」に関しては友人ともう少し話してから考えよう。)

実際には、そんな映画は撮られていないのに本編を期待してしまう。

そんな予告編に賞を贈る「予告編だけ映画祭」があったら面白いなと、

そう思いました。

あ、もう あったらどうしよう。。。

2010/05/17

ふと感じた反省

 僕の最近の癖、ツイッターで、面白い情報やニュースを見つけた時、ちょっと興奮して、すぐRTしてしようとする。
もう少し冷静になって、詳細を見て、RTした方が、自分のためにもなると思うんだ。
すぐRTしてしまうと、それだけで満足してしまうことだってある。
気をつけましょうね、僕。

2010/05/13

書くこと

「書くことは自分の言葉で理解することにつながる」

最近の自分は、

理解も自分の言葉で、できるだけ平易な言葉で、理解できているか。

全くその分野を知らない人に、自分の言葉で説明できるか。

最近、そういう意識でもって本を読んでいないと感じる。

本を読んでも、自分の言葉で理解しなければ、身についたとは、僕は言いたくない。

2010/05/12

目が悪いと

「日の目」が

「目の目」や「日の日」に見えて、何のこっちゃであろう。

また、「オススメ」と「オスメス」の見分けもつかんことであろう。