2010/10/02

ふと思った疑問。箇条書きメモ。

「人生楽しんだもの勝ち」というセリフをよく聞くけれど、
これを聞くたびに思うことがある。
一体、何に勝つのか。
そして、「人生楽しんだもの勝ち」とはいうけれど、
「サッカーは楽しんだもの勝ち」と言わないのはなぜだろう。

教えてほしい。
ルールの存在か。
では人生のルールとは、そもそも人生にルールはあるのか。

「人生楽しんだもの勝ち」とは、
「人生楽しんでいるもの勝ち」なのだろうか。
「人生楽しんだもの勝ち」は、リスクをしょってでもやりたいことを
やりとおす人へ向かって言われたり、その人が言ったりする。
では「10年後、やりたいお店を自己資金のみで開くため、10年間、給料はいいが楽しくないと感じる仕事をする人」を
彼らは「勝った」(僕はこの「勝つ」の意味が分からないのだけれど)というのだろうか。
彼らの言う「勝つ」は、何かスパンの短さを感じる。「その時」しかない気がする。
もっと計画的に5年、10年、40年がっつり苦しんで、残りをやりたいことに捧げる人もいると思う。

さて、この「勝つ」を「克己」、つまり己に欲や邪念に打ち勝つととらえるとどうか。
「楽しんでるじゃん」って言われて、「それ克己じゃないじゃん」と言われて終わりなきもします。

そもそもこの場合、「勝つ」という意味もそうだけど、「楽しむ」という意味もどういうみだろう。
「楽しい」と「楽しかった」は少し違う気がする。
「楽しい」は瞬間的な出来事の感想だけれど、「楽しかった」は、「結局は」的な意味も含まれて幅のある時間が込められていると思う。


「(いろいろ苦労もしたけれど、人から見ていい暮らしはできなかったかもしれんけど)人生楽しんだもの勝ち」なのか、
「(どうせ俺たちは死んじまうんだ。人生なんて儚いぜ!〉人生楽しんだもの勝ち」
なのか。

開き直りか。それとも悟りか。

一番僕が気に入らないのは、その一言を、人生の客観的法則のように掲げ、人に押し付けようとすること。
そう。僕は流行遅れの相対主義者です。


言葉の意味と使い方に、僕はとても粘着的になるようです。
これに似た粘着を、「自分探し」という言葉のおかしさについて、昔みせた。
こちらから

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