2013/09/08

正しい答えがいつも人を幸せにするわけではない

一人で出かけることが多かった休日を、
人と会って過ごすことが、少しだけ増えた。

バーベキューに出かけてみたり、
企画展に行ってみたり、この夏は色々なところに出かけた。
お世話になった皆さんありがとう。

お出かけをすると、お話しながらご飯も食べる。
会話が弾むと、色々な疑問も出てくる。

「『3000円ポッキリ』の『ポッキリ』ってなんなん
「ちゃんちゃらおかしいの『ちゃんちゃら』って、なにもの」

とか。

その時、僕や相手の人が手にしていたのがスマホだった。
Google先生に聞けば、だいたいのことは1分以内に分かる。
芸能人の名前は知っているけれど、顔が出てこなくて会話がそれから盛り上がらない
(そっから先に面白いオチがあったりする)
ということも、今では画像検索のおかげてなくなった。
もう、電波さえ入れば、いつでもどこでも簡単に答えが得られる時代になっていた。

電波が入らないと、僕らは知っている情報を出し合って、答えを出す。
それは、おおよそ正しそうだったり、たんなるボケだったりする。

でも、その時、僕らは本気で疑問の答えを探そうとはしていない。
僕らは、答えの正しさとかは棚に上げて会話を楽しんでいる。
「まあ結局はどうなんだろうね」と思いながら、
その場だけの答えが生まれたりしていた。
真実性より、その答えを出すための会話のやりとりが楽しければよかった。
それが相手を知る重要な手段であったし、時間を楽しく過ごす秘訣でもあったと思う。



「おまえ達のやっていることは検索で、思索ではない」
伊坂幸太郎『魔王』講談社学術文庫、2008

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