2009/06/29

090629/適材適所。メモ

ウェブで商品のPRをするとき、人の口に乗っかりやすいものとそうでないものがある。

前者は、人の身近なB級のもの、くだらないものなど、人が反射的に人に伝えたくなるような話のネタになるような情報を持つもの。またそういうキャンペーンをしているもの。

後者は、マイナーチェンジをしただけのもの、中途半端な高級品(恐ろしく高級なものは上に属すと思うが)、

ほかにもたくさんありそう。

2009/06/14

土曜日、午後に起きる…

金曜日の夜から土曜日の朝にかけて軽い夜更かしをした。

理由は、土曜日と日曜日にやらなきゃいけないことが無く、
久しぶりに自由な時間が過ごせると思ったため、
ウキウキして興奮して寝れなかったから。

そして、今日、午後起床…。

本末転倒。

「静かにしろ」と大声で注意するようなもんだ。

明日こそ、午前に起きる。

明日はときめいてしまう予定があるのだけれど、考えるとまた寝られなくなってしまいそうだ。

2009/06/10

090609/「こと」にする。

厳密に考えると、自分の顔を見ることはできない。

人に言わせれば、鏡を通して見ることができる、と反論されるかもしれないが、

それは「鏡」を見ているのであって、顔を見ているのではない。

しかし、鏡に映った顔を見るということで「自分の顔を見ている」ことにすることができる。

実際には不可能なことを、「そうしていること」にしている。

それを可能にしているのは、「鏡は光をそのまま反射する」という僕らの日常的な知識だ。

二つの異なった事態を同じ「こと」にするのは、僕ら自身である。

「見ること」は物から反射してきた光を眼で受け、そのものを認識することである。

一方、鏡は物から反射してきた光をそのまま、入射角と反射角が等しくなるように反射するため、世界をそのままの在り方で映す。

そのため、鏡に映った自分の顔は、厳密には見ることができない自分の顔と同じ顔である。

そのため、私は鏡に映った顔を見ることは、「自分の顔を見ている」ことにする。


同じ結果、同じ意味を生む二つのプロセスがあり、どちらのプロセスもそれ自体が大きな意味を持たず同じ結果を生むとき、二つの事態が一つの「こと」(結果)とされるのではないかなと思う。

でも何か気持ち悪さが消えない。これからも考え続けよう。

次回は、「鏡と自分の顔」について書きます。

2009/06/08

090607/ggrks

少し前までは、掲示板やSNSなどの書き込みで自分の知りたくて困っていることを尋ねる人を見かけた。

しかし、最近はもう見ない。

きっと、それはほろんど「教えてgoo」や「ヤフー知恵袋」に書いてあって、そこになくとも
「<知りたいこと> とは」と入力すれば大体の場合、分かるからだ。

最近のネットユーザーはそれをわかってきたから、「教えてgoo」などのサイト以外では、もう聞かないんだろう思う。

そのようなことが浸透仕切るギリギリの状態の時まで「ググレカス」「ヤフレカス」という言葉が

ネットスラングで使われていた。

しかし、もうすでに人は知りたいときにググること、ヤフることを覚えた。

「ググレカス」が死語になる日も遠い日ではない。

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このニュースを見て、婚活という現象を初めてリアルの世界で知った気がする。
http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/090521/bbl0905210751000-n1.htm

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都市には、あらゆる欲望を受け止めてくれる受け皿がある。

と、ある本に書いてあった。

しかし地方にはその受け皿は十分にあるかと言えば、肯定はできない。

その都市と地方の差をインターネットは埋めることができるか。

ある程度はできると思うけど、限界が必ずある。

それは欲望の種類にもよると思う。購買への欲望はある程度満たすことができそうだけど、

「何かを楽しむ(例えば、おしゃれなカフェでテート)」ことに関しては、画面の前でその欲望を満たすことはできない。

身体を用いて果たすような欲望の充足は画面だけを相手する現在のネットでは無理だと思う。

この身体と画面の物理的なギャップはなかなか埋まらない気がする。

このギャップの上に、昨日少し考えた新聞の生き残る道が敷けるのではないかと、本を読んでいて感じた。

2009/06/07

090606

「新聞は一日たてばただのゴミ」と言われたのは、もう昔のこと。

今日、大量の情報がリアルタイムで流れ、指先を少し動かすだけで、世界の出来事がモニターからうかがえる。

何か興味のある社会現象について知ろうと思ったら、新書がよくまとめてくれている。

新聞の減価償却の速度、ゴミになる速度は、ますます速くなっている。

新聞がゴミになるには24時間も必要としないのがこの時代である。


でも新聞の持つ、他にはない部分はあると思う。

アイデアで作り出せる。

減価償却の速度をゆるやかにすることを考えるのは楽しそうだ。

今日、ある本を読んでいて、そう思った。

2009/06/02

090601/学んだこと

「無意味なこと」をある価値としてお金を払って消費してもらうとき、そこに必要なものは「その無意味なこと」の中身の質であるよりも、それを価値あるものにする「環境作り、文脈づくり」であると感じた。

僕はこれまで、中身の質の追求ばかりしていた気がする。

「無駄なもの」が楽しまれるには、ある程度その価値あるものが楽しまれつくされた状況が必要そうだ。

「無駄なもの」が価値を持つということは、その飽和しきった状況に対する否定の運動の一つだと思う。

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自分の考えていたことを無理やりにでも社会に応用できないかを考えてみよう。

あるCFの一言を借りれば、「四角い穴に丸い杭を打ち込む」といったところか。