「無意味なこと」をある価値としてお金を払って消費してもらうとき、そこに必要なものは「その無意味なこと」の中身の質であるよりも、それを価値あるものにする「環境作り、文脈づくり」であると感じた。
僕はこれまで、中身の質の追求ばかりしていた気がする。
「無駄なもの」が楽しまれるには、ある程度その価値あるものが楽しまれつくされた状況が必要そうだ。
「無駄なもの」が価値を持つということは、その飽和しきった状況に対する否定の運動の一つだと思う。
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自分の考えていたことを無理やりにでも社会に応用できないかを考えてみよう。
あるCFの一言を借りれば、「四角い穴に丸い杭を打ち込む」といったところか。
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