2009/11/12

発見を探す。

「探す」という行為は、ある特定のものが念頭に置かれて、それを見つけに行く行為。

「学校へ、失くした筆箱を探しに行く」がその例。

一方、「発見」は行為というより出来事かもしれないけれど、

それがなされる時、または起こる時、そのものは念頭にはなかったけれど、

発見者の興味をそそるものが見つかるということ。

では、「自分探しの旅」とはどういうことだろう。

上のことがそのとおりなら、自分探しの旅において、見つけられる自分はもう決定している。

だから、ある在り方をした自分を自覚しながら、その在り方を見つけに行く旅ということになる。

でも、「自分探しの旅」いう言葉は、一般にはもっと別の意味でつかわれている。

それは、知らない土地で生活しコミュニケーションを行うことで、自分の判断や存在を自分が自覚しないところで規定していたものを見つけ出すこと。

その経験の最中で、またはその経験を経て、自分の在り方について、いろいろ悩むこと。

このような意味ならば、その旅でなされていることは、自分が「探される」というより、むしろ「発見されている」。

見つけるべき自分を知っているなら、人はわざわざインドとかアフリカとか、まだ訪ねたことのない土地に行ったりはしないは。

行ったことのないインドに「探すべき自分」はない。

人は、訪ねたことのない土地に自分を忘れたり、落としたりできないのである。

むしろ、そこにある(かもしれない)のは「発見される自分」だろう。

本当は、「自分探しの旅」は「自分発見の旅」なんだ。

むしろ、その「自分の在り方が揺さぶられるような経験」を念頭に期待しつつ、見つけに行く旅だから

「<自分発見>探しの旅」の省略形と言える。

まあ、言葉の問題なんで、どっちでもいいんですけどね。

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