2010/05/31

今日の三つ

①「本は買う瞬間がもっともモチベーションが高い」

これはオカダトシオさんの言葉。
確かにそのとおりで、まだ読んでない本はどんどんたまっていく。
ただ所有するため、購入するために変われる本だってあるかもしれない。
何かを買うことでストレスを解消する人もいると言われる時代、
本だって、その対象になりうるだろう。
そして本と同じ現象が起きているのが、テレビ番組。
録画して見られていない番組がどれほどあるだろうか。
「いつでも見ることができる」という言葉に甘えてはいないか。
僕は、がっつり甘えてしまっている。
すんません。見ます。


②写真について

写真で「寒さ」を表現しようとする。
そのために写すものは、
「うれしそうに歩いているペンギン」
「ポケットに手を入れて、肩をすくめて歩く人」
「雪の降る風景」
など色々考えられる。
しかしこれらの写真は、寒さ以外のものも表現している。
それは観る人によって異なるけれど、
ペンギンの写真からは、うれしさみたいなものが感じられるだろうし、
その一方で、歩く人の写真にはさみしさがただよっている。
雪の降る風景には、懐かしさがあるだろう。
伝えたいメッセージ以外のものも写真は伝える。
 何かを伝える道具として写真を選ぶ時、
その写真から感じられること全体を見て、
選択する必要がある。
一枚の写真では起承転結を表現することは難しい。
だから「伝わること」と「伝わってしまうこと」に、映像よりも気を配る必要がある。

③『山登り』について

疲れながら登って元の場所に降りてくるという作業。
しかし、山登りに何の価値があるのか、と問う人はあまりいないだろう。
山登りで得をすること、それは景色、虫や花の観察、きれいな空気、
適度な運動、都会にない緑、そこでの弁当などなどの体験。
体験というだけあって、これらはネットや本から得られるものではない。
それらの体験がほぼ約束されているから、山登りはされるし、肯定される。
スノボも同じであろう(わざわざ降りるために登るという行為)。
リアルにあってネットにないもののひとつは、それかなと思った。
「百聞は一見に如かず」より「百聞は一体験に如かず」です。
今日、見るだけなら、ネットで十分。でも体験はまだ無理かなと感じる。
どれだけPCで山を見ても、
それは椅子に座って画面を見るという「ネット体験」の枠の中にある。
では、体験に価値を認める人がいなくなった場合は、どうだろう。
でも、これはまた、別の話。

1 件のコメント:

  1. ③について、
    これは合理性から離れた部分の価値でもあると思う。
    というのは、母の日に仕送りでプレゼントを買って、送る行為をした時、金銭的に考えれば母は何も得をしていない。でも、母はきっと喜ぶはずだ(もちろん喜ばない人もいると思う)。
    ネットが取りこぼしている価値には、そういう合理性だけでは満たすことのできない何かがある。

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