今年の流行語の候補に少なくとも挙がるであろう「なう」。
これはとても便利な言葉である。
例えば「銀座なう。」、これだけで「私は今、銀座にいます。」を意味する。
6文字の節約。
「う なぎなう(回文)」、これは「今ウナギを食べています(これは回文です)」。
「『思い出トランプ』なう」、これは 「『思い出トランプ』を読んでいます」。
「うんこなう」、これは「うんこしています」。
ご 覧のとおり、「なう」は、実に多くの動詞の代わりを務め、多くのことを意味できる。
しかし、僕らは「うんこなう」を「今うんこを食べています」とは解釈しない。
何が「なう」の中身の意味を決めているのか。
解釈する方は、発言者の状況や文脈を読んで、チャリティーを働かせて、極めて常識的に相手の「なう」を解釈する。
それは、同時に語られるもの、語られる文脈、それをつぶやく人から、解釈する側が最も適した意味に解釈しているということである。
これと同じことが、僕らが昔から使っている「の」にも見られる。
一倉宏さんも、ある講義で言っていたが、
「母の料理」、これはお母さんが作った料理として理解する。
「牛の料理」、この言葉を聞いた僕らは牛が作った料理という 意味で解釈することは稀である。
むしろ牛を材料とした料理を想像する。
「赤ちゃんの料理」 、この「の」が材料を意味するのだったら、どえらいことになる。ウミガメのスープどころではない。むしろこれは離乳食を指すと解釈された方がよい。この 場合は、誰に向けて作られたかとして解釈される。
「キツネの料理」、これはかなり微妙で、キツネの肉が使われている かもしれないし、
キツネうどんを想像するかもしれない。
字面が同じでも、何と語られるか、誰が語るか、どのような流れの中で語るかで、その意味が異なる言葉として「の」や「なう」は使われている。
そのため、語られる文脈の共有が相手とできていなければ、自分の伝えたいことが伝わってくれない場合が起こってしまう。
しかし、文脈に左右されてしまうこの意味の不確実さ、柔軟性を利用しすれば、面白い表現やつぶやきは大いに可能であると思う。
というか、言葉に固定された意味なんてあるのだろうか。。。
僕はディヴィドソンに共感する。
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