2009/11/24

裸眼とは

メガネをかけていないし、コンタクトも装着されていない。

そういう目のことを、僕らは「裸眼」と呼ぶ。

その目は「裸」ということです。

だから、メガネの「eye wear」という呼称は

間違ってはいない。

むしろ、メガネ屋か広告代理店が、

裸眼偽装アイテムであるコンタクトに対抗するために

作った造語なんだろうと思う。

では、コンタクトは人間の裸に対する何なのだろう。

裸偽装アイテムだから、ボディースーツかな。

そして、最近、メガネやコンタクト以外の視力矯正方法がある。

レーシックだ。

これは人間の裸に例えると、美容整形なのだろう。

2009/11/18

ガルツ

①ガルツ

今日、先週書いた勉強用のノートを見た。

そこには「ガルツ」という意味不明な文字列が。

「何のことかな」とじっと見つめて、考えているうちに

前後の文脈から、「カツレツ」だということに気付いた。


②他者の目

体をやつれさせ、どのような手段を使っても「クスリ」を手に入れようとするような

手段の善悪に盲目になっている人を

僕らは「覚醒剤中毒者」と呼ぶ。

では、仮に僕らとは異なった常識の体系を持っている生物(火星人とか)が人間を見たとしよう。

体を酷使し、嫌なことにも笑って耐えてまで、お金を貰おうとしている人間は

「金銭中毒者」と呼ばれるかもしれない。

そこで僕らは反論する。

「金銭は生きていくために必要なだけ。それ自体が目的ではない」

でも、それは覚醒剤中毒者も使える言い訳な気もしないではない。

でもこれ以上は考えるのは、タイムオーバー。

寝ます。

2009/11/16

妻と愛人

①妻と愛人

あるドラマの中で、女たちが言い争いをしている。

女が言う。「愛人を自慢する人はいても、妻を自慢する人はいないわ」

これを聞いて、もう一人の女が言い返す 。
「愛人は何人でも作れる。でも妻は一人しか作れないのよ」

「これは男に対する愛の深さの勝負というより、もはや見栄の勝負だな」

と思った。

でも、この事件以後、きっと妻の夫に対する少し冷めた態度は温度を取り戻すんじゃないか、とも感じた。

その意味では、仲が少し上手くいっていない夫婦は、愛人役を立てて、その愛人役と少し言い争いをさせるのも手なのかもしれない。

でも、夫婦関係が完全に冷めきっていた場合、それは、むしろ無意味、もしくは逆効果で、それは止めの一撃にもなりかねない。

ってか、ふつー、止めの一撃だわな。

②不倫
不倫の関係の深さを知る方法の一つ、

家族のいる方が、その不倫相手にどれだけ長期休暇の日にちを使うか、

と誰かが言っていた。

日数もそうだけど、その休みの日の質も問われる。

正月休みをその不倫相手のために使うなら、その関係は相当深い。


③今日のニュース
「女子52キロ級で、白帯の山本杏が3位に入る健闘を見せた。3位決定戦で世界ジュニア3位を破る殊勲。『背負うものがないので、思い切りできた』と笑顔を見せた。」というニュースがあった。

多分、この人の苦手な技は、「背負い投げ」だと思う。

2009/11/14

空気嫁

①空気嫁

文字を打ち込んでいる時、期待はずれの変換がよくある。

最近、書く内容が、哲学に関わるものなので日常語から離れた

言葉を使うためしょうがない、と思っている。

でも、誤変換が何回か続いたり、期待したものと違った文字への変換が繰り返えされると、少しイライラする。

最近、そういうことがあって、心の中で舌打ちして「空気読め」と呟いていた。

確かに、その内容や文脈に合わせて、言葉を選ぶ、ということは空気を読む能力に似ている。

今のPCに、その能力を求めても、酷なのではあるけれども。

あと、最近って、文字は「書かれる」より「打ち込まれる」ものになってきてる。

例えば、ケータイ、PC などなど。

一日の生活を見ても、「書く」より「打ちこむ」頻度の方が多い気がします。

あ、iphoneの場合はなんて言えばいいんだ…。

考えよう。


②言い換え

「老けて見える」とレディーに対して言うことは大変失礼ですが、

「落ち着いている」と言うことは失礼ではない(と思っている)。

今日、心の中で、とっさに言い換えができた自分に拍手。


③先輩のブログに書いてあったこと

本屋で立ち読みをしている子供がいた。

彼か彼女は、ページをめくる度に、声とともにリアクションをとっていたらしい。

大人の場合、声を上げてはリアクションはしない。大人だから。

でも、ページをめくるたび鼻息は荒くなっているんではないか、と、その先輩は考える。

そして、本人は鼻息はまずいと思って、体をねじったりしているんだそうだ。

これを読んで、「確かに姿勢変えるなあ」と共感し、

また、ページをめくる度に新しい発見がある、そのような本に出会いたい、と思った。

でも、本ばかりに頼っていてはいけない。

驚きを得るための努力も必要。

確かに、多すぎる知識は驚きをあまり与えない。

その分、本の内容に既知のものが多くなるから。

だけど、少なすぎる知識では、その内容も理解できない。

ちょうどいいくらいの知識も持ってなきゃいけないな。

さあ勉強。勉強。

2009/11/13

メモ:概念と(感情的)判断の改変について

概念の構造は、どういう在り方をしているのだろう。

概念と世界は密着していて、概念構造=客観的世界の構造としてある。

だから概念分析によって、僕らは概念構造を発見しているのか。

それとも、概念は人間の側にあって概念の構造は客観的に決まっておらず、

むしろ人工的なものであり、人によって改変することができるのか。

概念は、何種類かに分けることができるから、概念がなす構造の全てがどちらかにだけ属するというわけではなさそう。

あるものは客観(世界)の側に在るものとして、あるものは人間の側に在るものというように分けられると思う。

そして、その区別によって、哲学の問題などで、「誤っている」とされるものが変わってくる。

人間の判断をより基礎的にみて、「概念の構造が誤っている。私たちの日常的な判断と適合しない」から、構造の方を改変するのか。

概念の構造の方を基礎的に見て、固定し、「僕らの思考や判断(特に感情的な判断)が誤っていた。だからこれからは、概念の構造に合わせて、こう判断せねばならない」とするのか。

誤っていて、改変しなければいけない概念構造は、その概念がどのような種類のものかによると言われそうだけれど、

本当は僕は「どちらを変えるかは、概念の種類というよりも改変する主体の自由であり、どちらでもよい。『この概念は~だから、こっちを変えなければならない』ということは客観的に決まってはいない。どちらでも上手くいく。あとは主体次第である」と思っている。

今日、「人格と記憶」の話をしていて思ったこと。

2009/11/12

発見を探す。

「探す」という行為は、ある特定のものが念頭に置かれて、それを見つけに行く行為。

「学校へ、失くした筆箱を探しに行く」がその例。

一方、「発見」は行為というより出来事かもしれないけれど、

それがなされる時、または起こる時、そのものは念頭にはなかったけれど、

発見者の興味をそそるものが見つかるということ。

では、「自分探しの旅」とはどういうことだろう。

上のことがそのとおりなら、自分探しの旅において、見つけられる自分はもう決定している。

だから、ある在り方をした自分を自覚しながら、その在り方を見つけに行く旅ということになる。

でも、「自分探しの旅」いう言葉は、一般にはもっと別の意味でつかわれている。

それは、知らない土地で生活しコミュニケーションを行うことで、自分の判断や存在を自分が自覚しないところで規定していたものを見つけ出すこと。

その経験の最中で、またはその経験を経て、自分の在り方について、いろいろ悩むこと。

このような意味ならば、その旅でなされていることは、自分が「探される」というより、むしろ「発見されている」。

見つけるべき自分を知っているなら、人はわざわざインドとかアフリカとか、まだ訪ねたことのない土地に行ったりはしないは。

行ったことのないインドに「探すべき自分」はない。

人は、訪ねたことのない土地に自分を忘れたり、落としたりできないのである。

むしろ、そこにある(かもしれない)のは「発見される自分」だろう。

本当は、「自分探しの旅」は「自分発見の旅」なんだ。

むしろ、その「自分の在り方が揺さぶられるような経験」を念頭に期待しつつ、見つけに行く旅だから

「<自分発見>探しの旅」の省略形と言える。

まあ、言葉の問題なんで、どっちでもいいんですけどね。

2009/11/11

空目

①空目
さっき「外」を「タト」と空目した。

②つけめんマン
らーめんマンはピンだけど、

つけめんマンは、きっとコンビだ。

たれマンとめんマン。

たれマンのスープが何ベースかで得意技とか強さがが変わる。

まだ見たことないけど、当たってると思う。

あ、でも、ラーメンにもめんとたれはあるか。。。

2009/11/09

~にとって一週間とは

「~にとって、一週間とは」が延々と述べられています。

南米のどこかの国の週刊誌のCFです。




このように、多くの視点を持ち続けられる人が本当にうらやましい。

「偏見」という言葉から最も遠い人間だろう。

2009/11/07

自分の好きなこと

「自分の好きなことが、どれだけ好きか試されている」

この前、ある人が発した言葉。

その人も、別の人に言われたらしいんですが…。

今、この言葉に、考える粘り強さと行動するための意志を頂いているところがある。

2009/11/03

床掃除。

①床拭き

「雑巾で床をきれいにしておいて」と言うよりも、

「この雑巾を真っ黒に汚してきて」と言ったほうが聞こえがいい。

もしかしたら、成果も上がるかもしれない。

「汚して」なんて、普段は誰も頼まないから。

でも雑巾は汚されるほど喜ばれるものとしてある。


②野党

与党をほめたことのない野党が述べる与党批判は、

たとえ妥当であるように聞こえても、

信用に欠ける気がする。

みんなから納得される批判を構成しているものの一つに

「その人が、どのように人を褒めたことがあるか」

という要素があるように思う。

2009/11/02

政治家

①政治家

政治家が頭が堅い、と言われるのは

世間から叩かれても、

動じないためなのかもしれない。