2010/06/15

俯瞰してみたら、稲中っぽかったのかもしれない。

サッカー観ながら友人と

「オフサイドを男女の駆け引きで例えたら何にあたるのだろう」と考えていた。

駆け引きをほとんどしたことない僕らには答えを出せるわけもなく、

あーでもない。こーでもない。と議論していくうちに、

でも「人生、送りバント」より「人生、フォアボール」がイイヨネ!

という結論になっていた。

そしたら、日本が勝っていた。

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色んな人に色んなのを勧められ、

最近はこんなのを聞いています。

ジャンルに一貫性なし!

















2010/06/13

クリスマスケーキ

女性はよくクリスマスケーキにたとえられる。

というのも、クリスマスケーキが12月24、25日を過ぎたら全く売れなくなるように、

女性も24,25才を過ぎたら男性からチヤホヤされなくなるから。

友人が「クリスマスケーキとかホントやめて欲しいんだけど―」と言うのも聞いたことがある。

しかし、女性はそこまで危機感を抱く必要があるのかなとも思う。

クリスマスの後、日本にはお正月がまっている。

お正月と言えば、しめ縄と鏡モチ。

きっと女性すべてがクリスマスケーキなのではない。

しめ縄や鏡モチに例えられてもよい人も多くいると思う。

しめ縄や鏡モチは、新しい年を彩るための無くてはならないものであり、

その年の最後のお買い物でもある。クリスマス以降、31日までには購入されるものだろう。

25才を過ぎてから、相手の「家庭を持つ」という新たな人生のスタートを彩る華麗な花嫁になり、

相手にとってその人は人生最後の恋人でもある女性は

しめ縄、鏡モチと呼ばれてもよいと思う。(※ただし正月の後には、旧正月があるので注意)

しかし、そう呼ばれないのは、しめ縄も鏡モチもそこまで綺麗でなくスタイリッシュでもないからなのだろう。

2010/06/05

「なう」考


今年の流行語の候補に少なくとも挙がるであろう「なう」。

これはとても便利な言葉である。

例えば「銀座なう。」、これだけで「私は今、銀座にいます。」を意味する。

6文字の節約。

「う なぎなう(回文)」、これは「今ウナギを食べています(これは回文です)」。

「『思い出トランプ』なう」、これは 「『思い出トランプ』を読んでいます」。

「うんこなう」、これは「うんこしています」。


覧のとおり、「なう」は、実に多くの動詞の代わりを務め、多くのことを意味できる。

しかし、僕らは「うんこなう」を「今うんこを食べています」とは解釈しない。

何が「なう」の中身の意味を決めているのか。

解釈する方は、発言者の状況や文脈を読んで、チャリティーを働かせて、極めて常識的に相手の「なう」を解釈する。

それは、同時に語られるもの、語られる文脈、それをつぶやく人から、解釈する側が最も適した意味に解釈しているということである。

これと同じことが、僕らが昔から使っている「の」にも見られる。

一倉宏さんも、ある講義で言っていたが、

「母の料理」、これはお母さんが作った料理として理解する。

「牛の料理」、この言葉を聞いた僕らは牛が作った料理という 意味で解釈することは稀である。

むしろ牛を材料とした料理を想像する。

「赤ちゃんの料理」 、この「の」が材料を意味するのだったら、どえらいことになる。ウミガメのスープどころではない。むしろこれは離乳食を指すと解釈された方がよい。この 場合は、誰に向けて作られたかとして解釈される。

「キツネの料理」、これはかなり微妙で、キツネの肉が使われている かもしれないし、
キツネうどんを想像するかもしれない。

字面が同じでも、何と語られるか、誰が語るか、どのような流れの中で語るかで、その意味が異なる言葉として「の」や「なう」は使われている。

そのため、語られる文脈の共有が相手とできていなければ、自分の伝えたいことが伝わってくれない場合が起こってしまう。

しかし、文脈に左右されてしまうこの意味の不確実さ、柔軟性を利用しすれば、面白い表現やつぶやきは大いに可能であると思う。

というか、言葉に固定された意味なんてあるのだろうか。。。
僕はディヴィドソンに共感する。